2008年01月11日

訂正少々

『「無所謂」という単語』に引用した魯迅の『故郷』の文章、「故郷……無所謂有,無所謂無的」は私の記憶違いで『続き』のほうに書いた「希望……無所謂有,無所謂無的」のような原文だったみたいです。
また、岩波の訳は、「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。」で、さっきの私の引用は「もの」が二ヶ所とも落ちてました。
“「無所謂」=「どうでもよい」”という、ブログの論旨にはかかわりありませんが。猫
posted by 金春安明 at 01:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 能と音韻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
無所謂(どっちでもいい)、没弁法(しかたがない)は、中国語をまるで知らずに中国生活をはじめてまもなく、耳とカンで覚えた言葉です。なつかしや。
 以下、tutuの感想ですが、
『故郷』の場合は「的」もついた対句だから有無の意が生きるとして、さらに、『故郷』のコンセプトからして、
南方方言の人が北京語で「希望」というと「虚妄」みたいに聞こえるから、希望=虚妄=絶望=希望、という含意がこめられているのではなかろうか。
1910年の中国において、希望と絶望はコインの表と裏。どちらも虚妄というところから出発しなくちゃ希望は無い、というふうな。
Posted by ウラン at 2008年01月17日 17:22
帽大学の某ゼミで聞いた研究発表(横打さんという方です)、
現在の国語教科書のうちで、竹内訳『故郷』は、例外的に翻訳モノであるだけでなく、ほとんどの教科書会社が現在までずっと採用し続けているほとんど唯一の教材だとういうことです。つまり、われわれ世代の国語教材(だれでも知ってるはずの文章)の話は、今の若い人たちに通じないということです。『故郷』以外は。
漱石鴎外の消えて久しく、他の教材もどんどん入れ替わっているというのに、非常に面白い現象なので、理由など追求してぜひ論文にしてください、と強く勧めましたが、その後いかに?

Posted by ウラン at 2008年01月17日 17:38
またしても打錯了!
「帽大学」じゃなくて「某」です。
Posted by ウラン at 2008年01月18日 12:28
やっぱり。大体見当ついてました。バウ大学でなく、ボウ大学ですね。
Posted by at 2008年01月18日 23:22
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