また、岩波の訳は、「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。」で、さっきの私の引用は「もの」が二ヶ所とも落ちてました。
“「無所謂」=「どうでもよい」”という、ブログの論旨にはかかわりありませんが。

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以下、tutuの感想ですが、
『故郷』の場合は「的」もついた対句だから有無の意が生きるとして、さらに、『故郷』のコンセプトからして、
南方方言の人が北京語で「希望」というと「虚妄」みたいに聞こえるから、希望=虚妄=絶望=希望、という含意がこめられているのではなかろうか。
1910年の中国において、希望と絶望はコインの表と裏。どちらも虚妄というところから出発しなくちゃ希望は無い、というふうな。
現在の国語教科書のうちで、竹内訳『故郷』は、例外的に翻訳モノであるだけでなく、ほとんどの教科書会社が現在までずっと採用し続けているほとんど唯一の教材だとういうことです。つまり、われわれ世代の国語教材(だれでも知ってるはずの文章)の話は、今の若い人たちに通じないということです。『故郷』以外は。
漱石鴎外の消えて久しく、他の教材もどんどん入れ替わっているというのに、非常に面白い現象なので、理由など追求してぜひ論文にしてください、と強く勧めましたが、その後いかに?
「帽大学」じゃなくて「某」です。